“抽象的な希望を抱くよりも
具体的な絶望を破壊することで”
誰が言ったかって?
令和哲学者Noh Jesu氏です。
島崎は全くそうだと思いました。
抽象的な希望は確かに希望かも知れないです。しかし抽象的。すると、抽象的にぼやけていて明確な希望とは言い難く若しかして時には希望ではなくなっていることもあるのではないか、とそんな余地を残してしまいます。
希望なら希望。
なのに何故?
何故と問いかけるような様々な現象が襲ってきますよね。それらが絶望として襲い掛かるのですけれども如何せん抽象的な希望から来ているために、絶望とも思い難いと言いますか。
絶望がイメージできません。
だから絶望が生き残ります。
絶望を無視して抽象的な希望に走っているからこそ、また希望でなくなるような不透明な状態となり再び絶望を体験してしまうという中途半端な希望。
中途半端であっても。
希望に走りたくなるものです。
それを延々と繰り返し続けるからこそ真にそのループを抜け出るには、抽象的な次元を超えることではないでしょうか。
それこそ具体的な絶望。
それゆえに破壊も可能。
具体的な絶望、それも究極の絶望がイメージできてしまったら、それを破壊することで何が残るのか・・・
希望だけがある。
スッキリわくわくする世界です。
読んで下さってありがとうございます。宜しかったら別の記事もお読みください。
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